Y梨学院大学の監督・U氏は、中学時代からトップクラスの選手だった。高校時代はインターハイ5000mで2位。チームのエースとして部員8人のチームを全国高校駅伝に導き、卒業直前に出場したハーフマラソンでは今でも残る1時間4分15秒の高校記録を打ち立てた。 自信たっぷりで大学に入学したが、オーバーワークがたたり入学早々坐骨神経痛に見舞われる。練習量が落ちると負けるはずのない同期にぬかれ、焦って練習強度を高めるとまた故障。悪循環を断ち切れぬまま駅伝シーズンを迎えた。 12月に入り、箱根のメンバーがエントリーされると、10区にU氏の名前があった。控えでも仕方ないと思っていたが、監督は自分を選んでくれた。「よし、やるぞ」頭では頑張らなきゃと思うが調整に入っても体調が上がってこず不安ばかり。でも監督は交代を告げなかった。 年が明けて1月2日、チームは往路2位でゴール。「やっぱり走るのか」床についても不安は消えず、眠れぬ夜を過ごしていると、主将が部屋にやってきた。「明日、頑張りますっ」1年生は精一杯の元気を出して言ったが、主将の反応は思いがけないものだった。「お前は頑張らなくていいんだ。今、先生から電話があってな」走るのは付き添い役だった同級生。自分は逆のサポート役に決まったとのことだった。 メンバーから外されるのは予想していたが、こんな形で通告されるとは思わなかった。メンバー落ちするにしても、師弟での心の通い合う場面があることを想像していた。「なんで、直接言ってくれないんだ」冷たく自分を切り捨てた監督への恨みにも似た思いが思わず出そうになるのを必死に押しとどめた。悪いのは自分。それなりの理由があるのは、自分が一番わかっていた。 箱根が終わるとバリカンで頭を丸めた。文字通り屈辱をバネにして練習に励んだ。 1年経った79年1月2日。U氏は山登りの5区で箱根デビュー。区間賞の走りで早大を抜き去り、逆転往路優勝のテープを切った。翌日チームは13年ぶり2度目の総合優勝。1年前とは天と地ほどの差がある正月だった。 「1年目の自分は、謙虚さの足りない、鼻もちならないヤツだった。監督にも、Uはこれくらいせんとわからんのか、というのがあったと思う。おかげで守りに入ったら本来の力は出ないということが痛いほどわかった。」 生まれて以来の屈辱という、恩師の与えてくれた「魔法」は、以後忘れることのない、攻めを貫く姿勢の原点となった。 (ベースボールマガジン社 箱根駅伝 熱き思いを胸に襷がつないだ80年間より一部抜粋) |
大学時代、大した実績を残してない私が言うのもなんですが… ◎高知大には監督がいません。学生同士だと、「それは違うよ」「止めといた方がいいよ」と言うことがなかなかできない。ましてや、「これくらいせんとわからんのか!」なんていう冷たい仕打ちなんか絶対してくれない。ノウハウを知り尽くして良くないことは良くないとアドバイスできる人がいない分、自分の弱いところ・足りないところ・間違ったところに気づく力とか、自分をセーブする勇気とか、いわゆる“自己管理”が大事になるかと思います。。 |
めちゃめちゃ努力した自分に駅伝を走らせない運命を与えた神様が、「これくらいせんと(努力してきたのに駅伝を走れないという経験をさせないと)わからんのか」と、何かに気づかせようとしているのかもしれない。その何かとは?? |
2年生の秋、サプリメントのセールスに来たおじさんより「練習直後にたんぱく質摂ったらいいよ」とアドバイス。それまで栄養摂取は通学時間1時間を経た後だった。壊れた筋肉等には即たんぱく質を補充せよ!ということで、翌日から毎日、ダウンのストレッチをしつつ牛乳を飲むことに。そしたらそれなりに走れるようになったのです。3000m走って14分半かかってたのに、14分15秒で歩けるように。 |